プロフィール詳細①
こんにちは、ヤマシュウ(@yamashu19)です。
バリアフリーな世の中で、自分らしく生きる方法をさがしてます!
現在43歳の会社員、車椅子ユーザー歴10年目。
千葉県船橋市在住です。
僕は昭和50年8月に大阪で生まれました。
昭和50年は以下のような出来事があった年です。
Microsoft設立、ゴレンジャー放送開始、アタック25放送開始、ローソン設立、ベトナム戦争終結、読売ジャイアンツ創設以来初の最下位、広島東洋カープ26年目で初優勝、障がい者の権利宣言が国連総会で指針、1968年の3億円事件の時効成立、太平洋戦争終結から30年、映画ジョーズ、第一次オイルショック
めちゃくちゃ昭和ですね。
ちなみに昭和50年生まれの有名人は、
尾田栄一郎、持田真樹、吉村由美、じゅんいちダビッドソン、黒田博樹、相川七瀬、吉瀬美智子、ねづっち、岡島秀樹、山田花子、ビビアンスー、神田うの、高橋尚成、上原浩治、高橋由伸、河本準一、徳井義実、ミッツマングローブ、船木和樹、本上まなみ、デビット・ベッカム、井端弘和、加藤晴彦、遠山景織子、安藤政信、河合我聞、だいたひかる、つるの剛士、マック鈴木、アンジェリーナ・ジョリー、波田陽区、チェ・ジウ、城彰二川上憲伸、ラルフ・シューマッハ、杉山愛、葉月里緒奈、米倉涼子、伊藤英明、なすび、さかなクン、福田充徳、千葉すず、川口能活、高橋かおり、谷亮子、吉野公佳、松井稼頭央、竹田恒泰、眞木大輔、原口まさあき、坂口憲二、大畑大介、内田有紀、東尾理子、AIKO、バカリズム、鈴木拓、HG、岩尾望、岡島秀樹、タイガー・ウッズ、シューマッハ
今からこの人たちと肩を並べるべく書き出してみたら、、、
めっちゃ負けてるやん。
これは、40年間さぼってたツケだ。
今更だが"圧倒的努力"が必要だ!
スポーツ中心の学生時代
小学生の頃は剣道、中学生は硬式テニス部、高校はラグビー部、
大学・社会人ではアメリカンフットボール部に所属するといった、
いわゆる"スポーツバカ"でした。
高校でラグビー部に入ったときはきつかった。
まだ水を自由に飲めない時代だったので、
わざと倒れたふりしてヤカンの水を頭からかけてもらったり、
トイレに行って隠れて水道水を飲んだりしてました。
毎日が地獄のような練習の日々でしたが、
ともに笑って耐えてきた仲間のおかげで乗り越えることができました。
大学からのアメフトはレベルの高い場所でついていくのに必死だったけど、
大きなスタジアムではじめてプレーした時の感動は忘れられない。
運動神経や体力だけでなく戦術のスポーツの面白さもあり、
その奥深さに魅了された。
その後社会人でもプレーをしてたので、
合計約10年、生涯で一番長く続けたスポーツになった。
海外での仕事にあこがれて
勤めた会社は繊維関係の商社で、漠然と海外で仕事がしたくて入社を決めた。
入社3年目からスポーツウェアのOEM事業の営業として忙しい日々を過ごした。
月に1~2回は中国を中心にアジア圏に海外出張させてもらいましたが、
自分の力不足で色んなトラブルを巻き起こし、
周りに助けてもらいながら何とか食らい付いて仕事に没頭していった。
そこから8年間、少しずつ仕事に慣れて面白味も出てきた。
何よりスポーツに関係する仕事はやってて楽しかった。
人生の大転落 、、、
2010年9月11日地域のクラブチームのラグビーの試合の最中に、
相手選手にタックルをしに行った時に、
僕の頭と相手の膝がまともに衝突して首の骨を脱臼骨折、
神経が損傷しそのまま胸から下と肘から指先までが動かなくなりました。
脊髄損傷の中でも重度の頸髄損傷という障害を負ったのです。
意識はしっかりしていましたが、
騒然とする周囲に対してまったく動かなくなった自分の状況を聞くのが怖く、
黙って救急車を待つしかありませんでした。
急性期病院に運ばれて
救急車に乗ると少し冷静になり、
「やばいな、これは俗にいう"下半身不随”かも」と思いながらも、
「週明けの仕事の指示はどうしよう?」
「いつから仕事できるんだろう?」
「来月の出張、売り上げの見通しは?」
などと仕事のことばかり考えてました。
病院につくと深夜まで様々な処置が行われ、
深夜2時か3時ころに救急救命室に入ったと思うのですが、
知らぬ間にそのまま翌日の昼頃まで寝てしまいました。
3日後、医者から宣告されたのは
”一生寝たきりか車椅子生活”
たとえ車椅子に乗れても社会復帰は難しい
一切の希望的観測を含まない冷酷な宣告を受け、
その時はもちろんショックでしたが、
今考えると一度はどん底まで落ちることが、
冷静に自分の生涯を受け入れるためのベストな言葉だったと理解できます。
受傷当時は首をコルセットで固められ身動き一つできませんでした。
一日天井だけを見つめる自分に絶望し、
このまま死んだほうがマシだと言う気持ちでしたね。
*今では笑い話ですが舌を少し噛んだだけでめっちゃくちゃ痛かったので、
舌を噛み切るという選択肢は1分で却下でした。(笑)
リハビリ病院での1年間
急性期病院で寝たきりの3週間を過ごした後に、
リハビリ専門病院に転院しました。
そこは当時365日休みなくリハビリを提供できる唯一のリハビリ病院でした。
車椅子に乗ることもできなかった自分を、
自宅で生活できるまでに回復させてくれました。
献身的なPT(理学療法士)とOT(作業療法士)との訓練は今でも忘れないです。
しかし、このリハビリ病院の患者はほとんどが脳梗塞の高齢者です。
はじめは同じように車椅子に乗っているのですが、
3か月から半年で皆自分の足で杖をついて退院していきました。
僕は11ケ月の入院でしたが、
歩くどころか立ち上がることもできずに、
車椅子のまま退院していくこととなりました。
伊東での1年9ヶ月
一旦、自宅に戻ったものの、まだまだ家族の介護無しでは生きていけませんでした。
これ以上自立できないものかと、更にリハビリ出来る病院は無いか調べましたが、
すでに約1年間の回復期病棟での入院を過ごした僕が、
再びリハビリのために入院できる病院はありませんでした。
焦ってとにかく片っ端から病院に電話していると、
頸髄損傷者だけの国立のリハビリ施設が伊東市(静岡県)と別府市(大分県)にある、
という「情報」をくれた病院にヒットしました。
早速、伊豆にある伊東のリハビリ施設に入所しました。
そこは僕と同じ頸椎損傷の人ばかりの施設で約40名の人たちと共同生活を送りました。ここでは以下のことを学びました。
・朝起きて寝るまでは自分一人で生活出来る方法
・動かない身体を理由に出来ないなら代替のやり方を考えると良いこと
・自分でコントロール出来ない問題に悩む時間を割かないこと
・「継続は力なり」はあながち間違ってないこと
・他人と自分を比べても意味がないこと
頸髄損傷に特化した施設の専門的な「情報」と、
同じ障がいを持った「仲間」のおかげで、
身体も心もしっかりリハビリすることが出来た。
1年9か月という長いリハビリ期間でしたが、
ここにこなかったら今の自分はなかったと断言できる。
そして、出来ないを理由に自分の人生をつまらないものにするのではなく、
出来る方法や戦えるステージで自分の人生を組み立てれば、
自分らしい人生を手に入れることができるはずだと思えるようになった。
ようやく社会に復帰するためのスタートラインに立ったところで、続きは別の記事に書いていきます!
(つづく)